1/2ページ目 誕生日 天保10年⇒1839年 代々幕臣の家の子として生まれ正親と名づけられました。 もちろん太郎さんも幕臣に。 家禄が150石だったのが、鳥羽伏見の戦い後には2150石に。 これって幕府が続かないってのを表してますよね;; そうそう、鳥羽伏見の戦が起こったときは太郎さんも大阪城にいましたが、騒ぎがあって聞いてみると将軍が江戸へ逃げたと聞かされてびっくりだったらしいです。 江戸に戻った後も主戦派だったのですが、慶喜公に怒られて(?)奉行職を免除されたとか。 でも江戸で、大鳥さんら北へ向かう仲間に軍資金を送っていました。 また、陸軍隊結成にも関与しています。 その後、榎本武揚らと共に脱走して仙台へ向かい、旧幕府軍と合流します。 正月に行われた蝦夷共和国の入れ札では副総裁に就任。榎本さんとは「太郎さん」「釜さん」と呼ぶ仲だったそうな。 5月11日に函館を占領され、奪還のため出陣するも敗北。 その後は唯一五稜郭降伏を推進していたので「官軍太郎」とか言われて軽蔑されたりしたことも。 しかし、新選組大野の書簡によれば、榎本さんと松平さんは 「戦争を起こしたことで処刑されるももとより」 と、助かるために降伏を決意したわけではないんですよ。 結局処刑されはせずに明治5年出獄。 外交官としてウラジオストックに滞在するも、幕臣の頃の江戸に戻りたいと帰国を望んで退官したそうです。 その後は本屋とかいろいろ着手したものの失敗ばかりでした。 晩年は榎本さんの世話になってすごしたといいます。 彼が死んだあとは榎本さんの話ばかりしていたとか。 彼の死から7ヵ月後の1909年5月24日(25、26日説もあり)、静岡県で病気のため死去。享年71歳。 墓は、彼の希望で幕臣墓所である東京の円通寺におかれました。 昭和期に、都区内ではありますが文京区の大林寺に移されましたが、墓石はまた円通寺にあります。 [指定ページを開く] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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