1/13ページ目 誕生日 天保7年8月25日⇒1836年10月5日 江戸下谷御徒町生まれ。 義理・人情に厚く、涙もろいという江戸っ子であったと伝わる榎本さん。 そんな彼のお父様は広島出身です。 日本測量で有名な伊能忠敬に師事し、その志を受け継いで日本地図完成に尽力したという人です。 その後幕臣の榎本家の株を買い、榎本家となったわけですね。 その子供である釜次郎は、幼少の頃からいろいろなことを学んでいました。 頭も良かった。遺伝ですかね?いいなぁ 昌平坂学問所へも入学しています。ここは幕府役人の養成所のようなもので、儒教を教わりました。 その他、江川太郎左衛門の私塾でオランダ語、ジョン万次郎のひらく中浜塾で英語を教わったりもしました(ここには大鳥圭介もいますよ!)。 さて、ここでまず人生を決める第一分岐点。 榎本さんは儒教が嫌いだったのか、卒業試験では落第ぎりぎりという成績に;; これでは役人にはなれません。 でも後のことを考えたとき、もしここで優秀な成績をとっていたら戊辰戦争で活躍することは無かったかもしれないですよね。 人生って難しいわぁ… さて、その後彼は一度函館へ。実は彼、小姓なんて可愛い時代があったんです、函館奉行の(笑。 …まぁ別にどうでもいいので飛ばします/笑。 函館から戻り、長崎海軍伝習所にはいった榎本さん。 1862年には留学生としてオランダへ行ってます。途中船が座礁するというハプニング付でね;; オランダにて榎本さんは蒸気学、砲術、法律等学びます。ほ〜、すごいっすね。 で。帰国のとき(1867年)に乗っていたのがご存知開陽丸であります。 このとき釜さん31歳。 この船は誰もが欲しがる超弩級戦艦なわけですよ。 そんなこの船の艦長に、帰国後任命され、さらに陸軍奉行に就任。 エリートさん街道まっしぐらですね。 あ、因みにこのとき彼は新婚さんvVおめでとう陸軍奉行。 しかし時代が時代、榎本さんは新政府軍への恭順を見せずに北へと向かうわけです。 途中勝海舟に説得されて船4隻を官軍に明渡しちゃったりもしますけど。←なにやってんのよ!!笑 そして北へ向かう中、仙台にて土方さんと再会(大坂で会ってますからね☆)します。 土方さんと、っていうか…みんなと?笑 ここに、旧幕府軍の勢力が集まるわけです。 榎本さんは、土方さんの事をたいそう気に入ります。←そりゃそうでしょう。土方さんだもん。 どのくらいかっていえば、後に彼が書いた「入室但清風」は、土方さんの事を書いた書。 「部屋に入ってくると、清々しい風が吹いてくるようだった」という意味です。 こんな事を書いちゃう榎本さん、ありがとう。←土方ファン代表。 このとき酔ってたらしいっすけどね。笑 で、奥羽越列藩同盟(新政府に対抗する者達の同盟みたいなもんです)の軍議に土方さんを連れて行き、なんと総督に推挙しちゃうんですよ。 でも土方さん…そういう役には向いてないんですよね。皆を脅すようなこと(殺生与奪権の行使)を言って反感を買い就任ならず;; その後蝦夷へと渡った新撰組と榎本さん。 函館新政府を立ち上げ、彼は総督に就任します、おめでたいですね。 しかしそんな中無敵と言われた開陽丸が江差の海にて座礁。 このとき土方さんは江差の高台からその様子をみて「釜さん、くやしいのう」と松を叩いて男泣きしたという話もアリ。 その松、今でも残ってます、かなり胡散くさ…おっと失礼。 土方さんも亡くなり(悲)、降伏が決定。榎本さんは一時自刃も試みますが見つかって失敗。降伏します。 さて。 彼は拘留生活中、旧敵将であった黒田清隆と仲良くなります。 釈放後は彼に請われて明治政府内で活躍するこことなりました。 千島樺太交換条約の公使として、彼の名は日本史教科書にも載ってますよね。 その帰りに行ったシベリアでの日記は現在も残っています。 その他、海軍卿、農商務省、外相などにもなってます。(すげぇ!) 現在の東京農業大学である私立育英黌農業科を設立したのも彼だったり。 明治八年、彼と大鳥圭介(旧幕府軍で、函館政府の陸軍奉行)は戊辰戦争旧幕府側の死者を弔うために碧血碑を建てました。 その後1908年にその生涯をとじます。 [指定ページを開く] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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